PROFILE
プロフィール
- 名前キム ジンヒョン(キム ジンヒョン)
- 生年月日1987/07/06(37歳)
- 出身地大韓民国
- 身長/体重192cm / 82kg
- ポジションGK
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
本格的にサッカーを始めたのはクラブチームに入った小5です。それまでも野球やバスケ、色々なスポーツをするのが好きだったのですが、それは両親の影響かも知れません。父は高校までバスケ、母も中学までバレーボールをやっていました。どちらも背は高いです。姉も中学までハンドボールをやっていました。母の妹の旦那さんはハンドボールで韓国代表になり、オリンピックでメダルも取りました。僕にもスポーツの血が流れているのかも知れません(笑)。最終的にサッカーに決めたのは、サッカーが一番、勝ったら嬉しくて、負けたら悔しかったからです。遊びでサッカーをやっていた時のポジションはフィールドプレーヤーでした。点も取っていたし、結構上手かったですよ(笑)。GKを始めたのは、クラブチームに入る前です。地域の学校対抗サッカー大会で、身長も大きかったからか、GKをすることになりました。その大会でのプレーを見たクラブチームの監督から「本格的にGKをやらないか」と誘われました。クラブチームでもフィールドプレーヤーをやりたかったのですが、監督に言われたら、GKをやるしかありません(苦笑)。
-中学~大学-
中学での部活の思い出は辛かったことばかりです。中学3年間はサッカーを楽しいと思ったことがなく、サッカー人生で一番、苦しかった時期です。練習もキツく、寮生活での上下関係も厳しかった。早朝、午後、夜と毎日3部練で、早朝は山を走ってから、朝ご飯を食べる日々。試合の結果が良くなかったら、1日中、山を走っていたこともありました(苦笑)。中2になって試合に出るようになったのですが、レベルとしては高い学校ではなかったです。3年になる前に転校したのですが、転校先の学校は強く、全国大会でも優勝しました。高校はソウルにある高校に行ったのですが、中学での僕のプレーを見た監督が誘ってくれました。この時の監督が一番の恩師です。指導は厳しかったです。中学時代と同じで、最初はサッカーを楽しめませんでした。高校でも3部練で、試合で勝っても失点したら、走らされました。ただ、その中でも監督は自分に期待をかけてくれていたので、高3になった頃はサッカーが楽しくなっていきました。3年の時に出場した大会は全て結果を残せました。ソウルの大会は全部優勝で、全国大会でも、ほぼベスト4か優勝。この世代は学校の中で、今でも有名です。中学時代に比べると楽しくなってきたサッカーですが、実は高2の最初の頃、3年生の先輩が厳しくて、サッカーを辞めたくなったことがありました。寮生活を送っていたのですが、ある日、平日に家へ帰ったら「何でいるの?」と母に聞かれて、「サッカー辞めるわ」と言いました。そうしたら、めっちゃ怒られて…。監督は「考える時間を与えたほうがいい」と、そっとしておいてくれたのですが、家にいたら毎日、母と喧嘩になるから、外に出ました。でも行くところがないので母の妹の家に行きました。1週間くらい、いさせてもらいました。サッカーに戻ったきっかけは、何もやることがなかったからです(苦笑)。母の妹の家にいた時、子どもたちと近くのグラウンドでボールを蹴りながら色々考えました。「今から勉強できるかな?」、「親にも申し訳ないな」とか。「やっぱりサッカーしかない」と思い直して、チームに戻りました。戻った時、監督やコーチに何か厳しく言われることはなかったです。それ以降、サッカーを辞めたいと思ったことは一度もありません。そうしたこともありながら、高2の秋、急に自信が付き始めました。GKとしてパワーも技術も成長しているのが目に見えて分かり、その頃からサッカーが楽しくなりました。誰にも負けない自信が出てきました。プロを目指したのもその頃です。3年になって、初めて年代別代表にも入ることができました。U-20W杯につながるチームでした。ただ、その代表には、ジュニアユース世代からずっと入っていた選手もいたので、いきなり入った僕は信頼されず、試合には出られなかった。悔しかったです。「今は誰にも負けない」と思っていたのに、「何で使われないんだ」と不満を顔にも出してしまいました。この経験が僕のサッカー人生の一番のターニングポイントです。そこから、より練習にも打ち込むようになりました。高校時代は濃い3年だったと今でも思います。高校卒業時にプロからオファーもあり、自分は行きたかったのですが、母に「大学に行きなさい」と言われました。大学時代は1年から試合に出て、2年の時、U-20W杯にも出場してグループリーグの全試合に出ました。ただ、僕にとって初めての国際大会で、緊張して何もできませんでした。(アレシャンドレ)パト、ジョーなどがいたU-20ブラジル代表とも対戦したのですが、3点を奪われました。2点を返したのですが、緊張して足が動かない感覚は初めてでした。その後、大学3年の秋に練習生としてセレッソ大阪に行くことになりました。
-プロ以降-
大学を卒業した後はKリーグのクラブに入ることがほぼ決まっていたので、代理人からJリーグのクラブへの練習参加を勧められてビックリしました。日本でプレーすることは考えてもいませんでした。最初は練習参加するだけだと思っていたので、まさかそのまま入ることになるとは(笑)。5日間の内、1日が練習試合でした。大学との試合だったのですが、セレッソ側として出た前半、ボールがほとんど飛んで来なかった。それを見たレヴィー(クルピ監督)が後半は大学側のGKに入れるよう頼んで、後半はセレッソ相手にゴールを守りました。それが自分にとっての試験みたいなものでした。45分を無失点で抑えて、契約を勝ち取りました(笑)。まさかJリーグでプレーすることになるとは思ってもいなかったですが、代理人から「韓国人のGKで、Jリーグでプレーしている選手はいない」と聞かされて、自分が初めてということで、嬉しくなりました。練習参加中にスタジアムで試合を見たのですが、観客も多く、「いい環境だな」と思いました。チームもいい印象でした。
セレッソでの1年目は、練習場、寮での食事、自分の部屋、練習場。半年間、その繰り返しでした。部屋ではずっと、日本語の勉強をしていました。週に2回、家庭教師とも勉強していました。少しずつ日本語を覚えてきた時、当時、高3だった永井龍選手と扇原貴宏選手と遊ぶようになって、どんどん喋れるようになりました。あの2人には今でも感謝しています。当時は分からない言葉があれば、みんなにメモ帳に書いてもらって、覚えて使うことを繰り返していました。当時、スマホはなかったので、一つ一つ辞書で調べていました。練習以外は常にメモ帳とボールペンを持ち歩いていましたね。言葉は使った方が覚えるのが早いので、知らない言葉に出会ったら、すぐに使っていました。「間違えたらどうしよう」という恥ずかしさもありながら(笑)。でも、とにかく早く覚えないとコミュニケーションが取れない。代理人からも、「言葉を話せるようになると、クラブもいいように思ってくれる。喋れないと契約更新は難しいから勉強しておきなさい」と言われていたので、「言葉を覚えないとセレッソに残れない」と思って必死でした。分かってくると、日本語の勉強も楽しくなって、あっという間に1年が過ぎました。チームもJ1に昇格できて、09年の最後は幸せな時間でした。
Jリーグ1で戦った10年は、チームとしてはいい結果が出たのですが、自分はケガで出られない時期もあり、悔しさもありました。11年、12年は成長が止まっている感じもして、「このままでいいのか」という思いもありました。1回、外に出たい気持ちもあったのですが、セレッソは僕をJリーグに入れてくれたクラブ。何も恩返しをせず出ていくことは自分の中で納得できなかった。13年は、自分としてもチームとしても、いいシーズンを送れました。14年にJ2降格した時は、責任を感じました。15年は途中で鎖骨を折って、チームもJ1に昇格できませんでした。この年は1月に行われたアジアカップで活躍できて、韓国代表としてポジションを取れるチャンスでした。そのためには16年が大事で、この年をいいシーズンにしないと、代表のレギュラーは掴めない。自分にとって大きな1年になると思ったので、J1でプレーしたい気持ちもあったのですが、長い間セレッソにいてセレッソのことも好きになっていましたし、代表でちょっといいプレーをしたからと言って移籍するのは調子に乗っていると思われるかなと(笑)。「僕はセレッソに何を残したのか」と考えました。「セレッソは僕に色々なモノを与えてくれたけど、僕はセレッソに対して何ができたのか」と。そうしたら、ミスしたことしか出てきませんでした(苦笑)。16年に昇格できた時は嬉しさよりホッとした気持ちでした。17年はタイトルを獲りましたが、僕は代表に行って、ルヴァンカップは決勝しか出ていません。決勝は「丹ちゃん(丹野研太)のためにも絶対に優勝しないといけない」という気持ちで臨みました。プライベートでも、17年は結婚という大きな出来事がありました。結婚してから、気持ちの部分で余裕ができました。生活も落ち着いて、心も体も安定しました。もう少し早く結婚していれば良かったかも知れません(笑)。ロティーナ監督に出会った19年と20年は、「まだまだ成長できることがいっぱいある」と感じることができました。そう思えたことが嬉しかったです。
21年の途中からは、小菊さんが監督になりました。小菊さんは、「練習から100%でやらないと、試合ではできない」という考え方でした。僕も同じ考えで、まず練習を全力でやり抜くことを意識して、ここまでやってきました。今年でセレッソに来て17年目になりますが、もっともっと成長したいですし、これから先も、満足することはありません。パパス監督も、練習に緊張感を持たせてくれる監督です。強度も高く、次のメニューに切り替えていく時間も速く、雰囲気もとてもピリッと集中しています。この緊張感でやり続けていけば、サッカーのクオリティーも上がっていくと思うので、1日1日、完成度を上げていきたいです。昨シーズンをもって同学年の山下達也選手が引退し、今年は唯一のチーム最年長になりました。チームを引っ張っていく責任は常に持っていますが、引っ張っていくためには、まず自分と向き合って、自分のパフォーマンスをしっかり発揮することが大事です。トレーニングも私生活も、日々、サッカー選手としてプロフェッショナルな1日を過ごすことを心掛けて1年を戦っていきますので、最後まで応援よろしくお願いします。
CAREER
経歴
NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
ジン2 利き足
右足3 足のサイズ(cm)
28.04 スパイクのこだわり
履き心地が良い5 試合前に必ずすること
水回りの掃除6 自分のプレーの特徴
足元7 遠征に必ず持っていくもの
イヤフォン8 オフの過ごし方
家族とお出かけ9 ストレス解消法
ゴルフ10 サッカーを始めた年齢
11歳11 サッカーを始めたきっかけ
サッカーが好きだったから12 仲の良い選手/理由
香川 真司選手13 チームメートの意外な一面/内容
福井 光輝選手/あの顔で意外とムードメーカー14 憧れの選手
ブッフォン15 サッカーで一番大切にしていること
自分自身に負けない16 今季対戦が楽しみなチーム/理由
鹿島アントラーズ/レオセアラに得点させない17 今までで一番嬉しかった試合
2017年のカップ戦優勝18 今までで一番悔しかった試合
2022年のカップ戦決勝19 将来の夢(サッカー面)
まだわからない20 もしサッカー選手じゃなかったら
バスケ21 あなたにとってサッカーとは
人として成長させてくれる22 今季の目標(サッカー目標)
全試合出場と、優勝23 セレッソ大阪の好きなところ
みんな仲が良い24 セレッソ大阪のイメージ
明るい25 ヨドコウ桜スタジアムの好きなところ
勝った時の雰囲気26 どんな応援をされると嬉しい?
全部27 おすすめの地元飯
韓国料理28 趣味・マイブーム
ゴルフ29 自分の性格を一言で!
真面目30 自分を動物に例えると
キリン31 生きていて1番ワクワクする瞬間
子供の成長を感じた時32 生まれ変わったら何になりたい?
サッカー選手33 座右の銘、好きな言葉
愛34 初めての給料の使い道
母親に渡した35 好きな女性の髪型はショート派?ロング派?
こだわりなし36 好きな季節/理由
秋/暑くも寒くもない37 好きな音楽のジャンル
POP38 好きな食べ物
韓国料理39 この世で一番好きなもの
my family40 この世で一番怖いもの
乗り物41 今一番会ってみたい人
いない42 今一番欲しいもの
掃除機43 最近嬉しかったこと
家族旅行44 引退後にやってみたいこと
事業45 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
サッカーの練習の3部練習46 学生時代に得意だった科目
体育47 ほっとする瞬間
練習おわりの帰宅後のソファー48 旅行に行くならどこに行きたい?
オーストリア49 いつもつけている香水(銘柄等)
エルメス50 ファン・サポーターへひと言
2025年シーズンも宜しくお願いします。