PROFILE
プロフィール
- 名前西尾 隆矢(ニシオ リュウヤ)
- 生年月日2001/05/16(23歳)
- 出身地大阪府
- 身長/体重180cm / 77kg
- ポジションDF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
大阪府八尾市で生まれ育ちました。サッカーを始めたきっかけは、小1の終わり頃、兄が通っていたサッカースクールに兄の送り迎えで母に付いていった時、コーチから「一緒にやろう」と声をかけてもらい、練習に混ぜてもらったことです。当時は野球もやっていて、小6までは両方やっていました。親としては「野球選手になって欲しい」思いもあったようですが、小6の時にセレッソのスカウトの方に練習参加に誘われて、中学からはサッカーの道に進むことになりました。体格に恵まれ、足も速かったので、小学生の頃は身体能力だけで点を取っていました(笑)。
-中学~高校-
セレッソ大阪U-15の練習に参加した際の驚きは今でもハッキリ覚えています。。レベルが違い過ぎました(苦笑)。でも、そこで落ち込むのではなく、「こんなレベルの高いところでサッカーやって、うまくなったら楽しいやろな」と、スイッチが入りました。ありがたいことに、「そのまま入ってくれ」とお声がかかり、加入できました。僕のサッカー人生の分岐点は中2です。中3の先輩と一緒のカテゴリーになり、(瀬古)歩夢選手や(鈴木)冬一選手と練習させてもらったのですが、僕の同期で右サイドバックをしていた吉馴空矢がケガをして、代わりに僕が入り、そこからずっと試合に出させてもらえるようになったんです。ここで右SBをやった経験は今でも役に立っています。中1ではセンターバックをやっていたのですが、当時のCB、歩夢選手と石尾崚雅選手は鉄壁でした。上の代は“黄金世代”と言われていたくらい、めちゃくちゃ強かった。その中で揉まれて成長できました。上の代と僕らの代では、技術も差がありました。正直、小学生まではFWもCBもしていましたが、技術云々ではなく、パワーとスピードで勝てたところがあったので、技術は疎かになっていました。中学生になり、セレッソのアカデミーに入ったら、「何も通用しない」みたいな思いを味わいました(苦笑)。強みにしていたパワーさえ、歩夢選手とぶつかったら吹き飛ばされて、危機感を覚えました。そんな中で、中1の時、金(晃正)コーチにサッカーの基礎や土台を叩き込まれ、そのおかげでプロになれたと思います。ただ、中1で少しできるようになっても、中2になって、1つ上の代と融合したら、また壁があり…。ただ、中2の時、高円宮杯JFA全日本U-15サッカー選手権大会で優勝したことはとても印象に残っています。相手がガンバ大阪ジュニアユースだったのですが自分も点を取ることができ優勝に貢献できました。ここから1つ上の年代別代表にも呼ばれ始めたので、1つの分岐点になりました。中3では、なかなかいい成績を残せず、個人としても伸び悩みました。キャプテンをやらせてもらったのですが、下の子を引っ張っていく難しさも感じました。中2、中3では、大畑開監督に、人としてのあり方を学びました。「真面目に、謙虚に、泥臭く」という3原則をずっと言ってくれて、それが今でも頭に残っていますし、心掛けています。
セレッソ大阪U-18に入り、また全体のレベルは上がりました。入ってすぐ腰の分離症をして、初めてサッカーを3〜4ヶ月ぐらいできない時期もあり、落ち込んだのですが、体を見直す時間にもなりました。筋トレも結構するようになり、今の体の土台を作ることができました。高2になって、初めてU-23にも呼ばれました。高3では、ほぼU-23の試合に出させてもらいました。そこでまた新たな壁が出て、鍛えられました。U-23でプレーしたことで、プロへの意識は強くなりました。当時、DFライン全員がU-18の選手という試合も多く、キツかったですが、ユースの試合では味わえない経験ができたことは、本当にありがたかったです。当時の同級生とは、今でも連絡を取っています。CBで組んでいた林田(魁斗)とは仲もいいですし、下川太陽とも連絡を取っています。トップ昇格を告げられたのは高3の夏過ぎです。セレッソでプロサッカー選手になりたかったので、嬉しかったですね。親も喜んでくれました。ただ、一足先にJ3でプレーしていた分、プロの厳しさも実感していたので、不安もありました。ただ、その意識があったからこそ、フワフワせずにプロの世界へ入っていけたと思います。高校では、村田(一弘)監督との出会いも大きかったです。村田さんも現役時代は守備の選手だったので、マンツーマンで指導してもらい、DFとしての技術を教えてもらいました。高1の時はU-18の監督として、高3ではU-23の監督として指導してもらいました。「現状に満足するのではなく、どんどん練習してパワーをつけろ」とも言われました。CBとしての戦術的な部分も叩き込まれ、個人戦術としても、「最悪、一人でも守れるぐらいの意志を持て」とも言われたので、勉強になりました。
-プロ以降-
プロになって一番記憶に残っている試合は、2年目の21年のJ1開幕戦です。1年目はJ1では出場できず、この試合がJ1デビュー戦だったこともあり、試合前は不安もありました。他の選手のケガが重なって自分が出たところもあったので、何かしら爪痕を残さないといけないと思っていたので、勝てたことは大きかったです。それに、出会った時に衝撃を受けた歩夢選手とJ1の試合でCBのコンビを組めて、感動しました。正直、歩夢選手とのレベルの差は、中学の頃は明らかでした。数年経って、トップチームで一緒に出られたことは、めちゃくちゃ嬉しかった。その頃から、「追いつき、追い越す」という意識に変わりました。今でも尊敬していますし、憧れですが、同じ舞台に立ったからには、いつまでも憧れで終わってはいけません。もう一人、アカデミー時代、トップチームで活躍する姿に惹かれていたのは山下(達也)さんです。プレーの力強さを含め、めちゃくちゃカッコ良かった。22年にセレッソに復帰されて間近で見た時は本当に嬉しくて、ファン目線になってしまいました(笑)。日々、山下さんから学ぶことは多いです。自分も活躍すれば、アカデミーの後輩に夢を与えられる存在になれる。それに、サッカーを見ている人だけではなく、色んな人に勇気を与えられる選手になりたいので、これからも自分に矢印を向けて、意識を高く持って取り組みたいです。
プロ3年目の22年は、1月に日本代表候補に選んで頂き、チームでは副キャプテンにも指名され、私生活では結婚もしました。まさに激動の1年になった中で、チームとしてはあと一歩でタイトルを逃し、個人としても、悔しい思いをしました。プロ4年目の昨年も、あまり試合に絡めず、チームの役に立てなかった気持ちが強かった。悩むこともありましたが、素晴らしいCB陣と競争できたことで、成長できた実感はあります。それに毎年そうですが、どんな状況でも自分にフォーカスして、自分と向き合って日々の練習に取り組むことは変わりません。1日1日が結果につながってくると信じてやり続けることが大事だと思っています。チームに必要とされる選手になりたいですし、常に上を目指していきたいです。今年は30周年ということもあり、チーム全員が優勝を目指す気持ちで戦っています。J1優勝の瞬間に立ち合うこと。それが今季の目標です。もちろん簡単な目標ではないですが、ここ数年で積み重ねてきた土台もあるので、あとは結果。節目の年にタイトルを獲って、セレッソというクラブの価値を上げたいです。個人としては、今年はパリ五輪もあります。誰もが出場できる大会ではないので、しっかり出場権を勝ち取って、本大会でもスタメンで出たい気持ちは強いです。そのためにもセレッソで試合に出て、しっかりとパフォーマンスで示すことが大事になります。3シーズン連続で副キャプテンも任されました。アカデミー時代も含め、お世話になったクラブに恩返しをしたい思いは毎年もっています。スタメンを奪い返して、チームを引っ張っていく存在になりたいです。