PROFILE
プロフィール
- 名前登里 享平(ノボリザト キョウヘイ)
- 生年月日1990/11/12(34歳)
- 出身地大阪府
- 身長/体重168cm / 68kg
- ポジションDF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
サッカーは兄2人の影響で始めました。初めてボールを蹴ったのは、「歩けるようになってすぐ」らしいです。ホンマかどうか分かりませんが、母は、「初めてサッカーボールを転がしたとき、蹴り返してきたのはアンタだけや」と。プロサッカー選手になった後に言われたので、完全に後付けやろと(笑)。家の前に公園があって、そこで毎日ボールを蹴っていました。家でもずっと動いているような、落ち着きのない子どもでした(笑)。幼稚園の年少から小5まで、地元のクサカSSという少年団でプレーしました。クサカSSではサッカーを純粋に楽しんでいました。兄も入っていたので自然と入りました。小5の途中からは、隣の大東市にあるEXE '90FCジュニアに移りました。初めての移籍です(笑)。負けず嫌いだったので、学年が上がるにつれて、負けては泣いて、を繰り返していました。ポジションはずっとFWでした。点を取るのが楽しかったです。
-中学~高校-
中学はそのままEXE '90FCに上がりました。小学生時代はドリブルや技術を磨き、中学では相手の重心を見てサッカーをしたり、ドリブルで逆を取ったり、抜いた後のコース取りを考えたり、駆け引きの面白さを学びました。全国大会にギリギリ出るようなレベルのチームでした。当時、(山口)蛍とかマル(丸橋祐介)がいたセレッソ大阪U-15とも対戦したのですが、やられました(苦笑)。中学では途中からボランチもやって、最終的に左サイドバックになりました。真ん中とは景色が違いましたが、ファーストタッチをどこに置くかを考えたり、ワンタッチで相手をかわすのは好きだったので、ドリブルでボールを運んだり、楽しかったです。中3は10番で左サイドバックでした。小学生時代や中学生時代は、セレッソの試合も見に行っていました。兄が森島(寛晃)さんの下敷きを持っていたり、僕もユン・ジョンファンさんを見たり、GK多田大介選手のゴールキックが「飛ぶなー」とか思ったり(笑)。小6の時に行われた2002年の日韓W杯のチュニジア戦で、前座試合として長居スタジアム(現:ヤンマースタジアム長居)で初めてプレーしました。森島さんがゴールを決めた試合ですが、あのゴールも現地で見ました(笑)。そう考えると、やっぱりセレッソとの縁を感じます。ちなみに、プロ1年目に森島さんと会う機会があったのですが、初めて会ったので、「フロンターレの登里です。昔からずっと見ていました」と挨拶したら、自分より腰を低く返してくれて。「どんだけ、腰低いねん」と思った記憶があります(笑)。
高校は香川西に進学します。選手権に出たくて。大阪は高校数も多いので、県外に出ようと。EXE '90FCジュニアの監督が香川西の出身だった縁もあり、一度練習参加に行って、決めました。選手の特長を生かしたサッカーをしていました。入学当初はボランチをやって、1年の夏ぐらいからはずっと左サイドハーフでプレーしました。1年からレギュラーで出ることができました。高校選手権を目標にしていたので、3年連続で出ることができたことは良かったです。ただ、1年の選手権で青森山田と対戦して、何も出来ず0-3で負けてしまい…。選手権に出ることだけを目標にして、出場して喜んでいた自分はちっぽけだったなと。恥ずかしくて、情けなさを感じました。だからこそ、2年では出るだけではなく、全国でもしっかり戦えるようにと、意識は変わりました。間違いなく1年での青森山田戦は転機でした。2年ではインターハイも出て、選手権も県大会は圧倒して優勝しました。1年ではギリギリで優勝したのですが、成長を示せたと思います。本大会では、初戦で藤枝東と等々力で当たって1-1からPK戦で負けました。ただ、フロンターレのスカウトに評価していただき、3月ぐらいに声をかけてもらいました。3年の高校選手権では、2回戦ではインターハイ優勝の市立船橋と当たったのですが、勝つことができました。ただ、1ヶ月ぐらい市船の対策をし過ぎて、その次に当たった前橋育英に負けました(苦笑)。高校3年間は充実していましたね。ボランチから左サイドにコンバートされたことが大きかったです。より自分の特長であるドリブルやスピードが磨かれました。寮のすぐ横にグラウンドがあったので、毎日、個人で朝練して、放課後も練習して、サッカー漬けの毎日でした。そういう環境に置かれたことが良かったと思います。中学の時は大阪にいたので、練習が始まるギリギリまで遊んだり、誘惑も多かったですが、高校はサッカーしかない環境で過ごしたので、それが良かったなと思います。香川西を選んだからこそ、人間的にも選手としても成長出来たと思います。
-プロ以降-
高3の4月にフロンターレの練習に参加して、オファーをもらいました。早くから声を掛けてもらったので、嬉しかったです。Jリーグを見に行っていた小学生時代からプロサッカー選手になることは夢でした。夢から目標に切り替わったのが高校時代です。ただ、練習参加した時は、経験したことがないレベルで衝撃を受けました。この時期のフロンターレは、鄭大世選手、ジュニーニョ選手らがいて、縦に速いサッカーでした。1年目のJ1第30節で初アシスト、初ゴールを決めました。等々力での試合だったのですが、両親も来て、初めて高校の監督も見に来てくれた試合だったので、めちゃくちゃ嬉しかったです。初アシストしたのが(中村)憲剛さんでした。偉大な方でしたね。色々と話をして、サッカーの考え方を教えてもらいました。最初は憲剛さんの言っていることが分からなかったのですが、自分の中で整理されてからは、憲剛さんの考えを吸収できました。1年目は左ウィングでプレーしました。プロ4年目(2012年)の途中、風間(八宏)さんが監督に就任して以降、左サイドバックになりました。ここがプロキャリアのターニングポイントです。2011年の終盤から2012年の途中まではベンチ外の試合も続いたのですが、風間さんになって、後ろにケガ人が出たこともあり、自分が紅白戦のサブチームの左サイドバックになったんです。風間監督の初戦でサンフレッチェ広島と対戦したのですが、スタメンで出た左サイドバックの選手がミキッチ選手に結構やられて。翌日の練習試合は「これはチャンスやな」と。「ここでアピールすれば試合に出られるかも知れない」と思ってプレーして点を取ったら、次の試合からスタメンを掴めました。風間さんとの出会いでサッカー観もガラッと変わりました。ここまで考えてプレーできるようになったのは、風間さんのおかげです。練習も独特でしたし、今までのサッカーの概念を一度外して取り組みました。もちろん、それまでに学んだこともたくさんあり、そうした土台があっての風間さんとの出会いでしたが、“自分はこう”という考えが固まったプレーヤーではなかったので、新たなやり方を吸収できました。かなり影響を受けたので、感謝しています。セレッソとのつながりで言えば、(大久保)嘉人さんとも13年にチームメイトになりました。それこそ昔、セレッソに入った頃の嘉人さんも見ていたので、「血気盛んな、あの大久保嘉人やん」って怖いイメージしかなかったです(笑)。ただ、実際に会ってみたら、「全然違うやん」って(笑)。普段はめちゃくちゃ優しいし、イジったら喜ぶし(笑)。嘉人さんからも大きな影響を受けました。FWが求めていることを言葉と動きで伝えてくれたので、FWが点を取りたいポイントを教えてもらいました。そこに合わせていくうちに、パスも磨かれました。風間さんでフロンターレのスタイルが作られて、17年にオニさん(鬼木達監督)になり、そこからタイトルを獲れるクラブになっていきました。それまではフロンターレも「シルバーコレクター」と言われた時代が長く、それこそ互いに初優勝が懸かった17年のルヴァンカップ決勝では、セレッソに負けてタイトルを逃しました(苦笑)。ここでガンと落ちたのですが、そこから開き直って、可能性を信じてみんなでもう一回、リーグ戦に向かっていきました。そうしたら最終節に逆転で優勝できて。あの瞬間は忘れることはないです。
それ以降も何度か優勝させてもらいましたけど、クラブとしても初タイトルだったので、あの優勝を超える喜びはないですね。それまで、どうしたらタイトルを獲れるか分からず、何が足りないのか、みんなで考えて、話して…。でも優勝を経験していないので分からない。それでも続けていった中で、優勝できて、全てが報われた瞬間でした。サポーターの方もクラブの歴史と一緒に歩んできたので、ホームで一緒に泣いて、喜んで。チーム全体が動き出した感覚がありました。結局、優勝するためには何が必要だったのか。やっぱり細部というか、それはピッチでもピッチ外でも。ピッチ内で言えば、一つ一つの球際やこぼれ球、相手の流れの時にどうプレーするかとか。優勝してからは、細かいところに気付くようになりました。今までやってきたことが肯定されたので、それが自信につながり、ピッチ内での余裕も生まれました。リーグ優勝したことで、チームも個人も変わりました。戦術的には、攻撃では風間さんで学んだやり方を続けてプラスαを加えていきながら、オニさんになって守備の規律や立ち位置を徹底して、球際や切り替えなどハードワークすること、勝負事では当たり前のことをやり続けていました。手を抜く選手が浮くような環境になり、練習から激しかったです。でも、そこはセレッソも似ていると思います。練習の雰囲気はむしろこっちの方がいいんじゃないかと思うほど。「リーグ優勝するためには何が必要か?」と聞かれても、自分はガムシャラにやっていただけなので分からないですが(笑)。一つ言えるのは、連敗しないこと。フロンターレでも、優勝したシーズンは連敗していません。逆に逃したシーズンは連敗しています。負けが続くと、どうしても後ろ向きな考えになります。チームの雰囲気も連鎖していくので、一喜一憂しないことも大事。負けた後の週の練習とか、いかに目の前の試合に向けて、常にいいメンタルで準備できるか。あとは、シーズンの中で、この試合を落としてはいけない、という試合をモノにすること。1試合の中でも、そういう勝負を分ける瞬間はありますが、試合の中でもシーズンでも、機微を掴むことが大事だと思います。セレッソでも、めっちゃ優勝したいです。色んな選手がセレッソで積み重ねてきた歴史があり、何かが足らずに優勝に届かなかった。それが何かは分かりませんが、自分が今年、その力になれれば、これ以上幸せなことはありません。強い覚悟を持って、移籍を決断しました。これまで悔しい思いをしてきた分、歴史がありますし、クラブ設立30周年の今年、ここでリーグを獲れたら物語としては凄いドラマ。その可能性はあると思いますし、感動的なシーズンにしたいです。長いシーズン、いい時期も悪い時期もありますが、目標を見失わず、ブレずにやり続けることが大事。波を減らしつつ、常にいいテンションで1年を過ごしていきたいです。自分がセレッソに来た意味を、しっかりピッチで見せたいです。アウェイでヨドコウ桜スタジアムに来た時は凄く嫌なスタジアムでした。今年、味方になることを考えたら心強いです。ぜひ熱いサポーターと一緒に優勝したいです。どんな時も、ともに戦っていきましょう!
CAREER
経歴
NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
ノボリ2 利き足
左足3 足のサイズ(cm)
26.04 背番号のこだわり
心機一転6の似合う男になる5 スパイクのこだわり
フィット感6 自分のプレーの特徴
ポジショニング7 試合前に必ずすること
歯を磨く8 遠征に必ず持っていくもの
化粧水関連9 オフの過ごし方
家族と過ごす10 ストレス解消法
子供と遊ぶ11 サッカーを始めた年齢
4歳12 サッカーを始めたきっかけ
兄の影響13 影響を受けた指導者
風間八宏14 仲の良い選手
小林悠/阿部浩之15 チームメートの意外な一面/内容
鳥海選手/気が利く16 サッカーで一番大切にしていること
立ち位置17 今季対戦が楽しみなチーム/理由
川崎フロンターレ/15年間在籍した思い入れのあるクラブだから18 今までで一番嬉しかった試合
2017リーグ初優勝が決まった試合19 今までで一番悔しかった試合
2017ルヴァン決勝(セレッソ大阪戦)20 将来の夢(サッカー面)
指導者21 もしサッカー選手じゃなかったら
体育教師22 あなたにとってサッカーとは
人生23 今季の目標(サッカー目標)
怪我なくリーグ優勝24 セレッソ大阪の好きなところ
アットホーム25 セレッソ大阪のイメージ
良い意味でやんちゃ26 ヨドコウ桜スタジアムの好きなところ
ファン、サポーターの方との距離が近い27 どんな応援をされると嬉しい?
良いプレーしたあとの拍手28 おすすめの地元飯
たこ焼き29 趣味・マイブーム
温冷浴30 自分の性格を一言で!
元気31 自分の一風変わったくせ
オンオフはっきりしてる32 生きていて1番ワクワクする瞬間
ガチャガチャ回すとき33 生まれ変わったら何になりたい?
大富豪34 座右の銘、好きな言葉
継続は力なり35 初めての給料の使い道
両親にテレビ買った36 好きな芸能人/アーティスト/芸人(男性)
川島明さん37 好きな芸能人/アーティスト/芸人(女性)
石原さとみさん38 好きな女性のタイプ
奥さん39 好きな女性の髪型はショート派?ロング派?
ショート40 好きなアニメ/マンガ/ゲーム
キングダム41 好きな映画のジャンル
アクション42 好きな音楽のジャンル
邦楽43 苦手な食べ物
パクチー44 この世で一番好きなもの
家族45 この世で一番怖いもの
ぎっくり腰46 今一番会ってみたい人
川島明さん47 今一番欲しいもの
時計48 最近嬉しかったこと
セレッソ大阪加入49 引退後にやってみたいこと
パンツ会社経営50 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
習字51 誕生日にもらって嬉しかったもの
洋服52 ほっとする瞬間
家帰ったとき53 いつもつけている香水(銘柄等)
ディップティック54 今季の目標(プライベート)
よく噛んで食べる55 ファン・サポーターへひと言
優勝しましょう!