PROFILE
プロフィール
- 名前柴山 昌也(シバヤマ マサヤ)
- 生年月日2002/07/02(22歳)
- 出身地群馬県
- 身長/体重161cm / 59kg
- ポジションMF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
群馬県出身です。最初は地元の友達に誘われてフットサルとサッカーの両方をやっていました。本格的にサッカーを始めたのは小2で、そこからはサッカーだけになりました。昔からプレースタイルは今と変わっていません。相手を抜く楽しさ、点を取る喜びは、当時から今も、何物にも変えられないくらい嬉しいです。ドリブルの技術はフットサルで学んだことが生きています。フットサルはオールコートマンツーマンのような感じで、1対1で勝てば局面も変わる。とにかく対面の相手を抜くことを意識していました。小2から高崎FC中川という地元の少年団に入りました。かなり本気でサッカーに取り組む少年団でした。周りにもうまい選手が大勢いました。いま東洋大学で2025シーズンから東京ヴェルディに内定が決まった新井悠太選手が幼馴染で、一緒にフットサルもして、そのまま高崎FC中川にも一緒に通っていました。中学からはそれぞれの道に進んだのですが、小学校時代はずっと一緒にプレーしていました。自分たちの代は強くて、小6の全日本少年サッカー大会群馬県大会では準優勝しました。監督も凄い熱量で指導してくれました。「バルセロナのサッカーを目指す」と言う方針だったので、バルセロナの映像もよく見せられていました。ボールをもつサッカーを志向して、自分はメッシの映像をずっと見ていました。ポジションはずっとトップ下でした。3年から6年生のチームに入れてもらってプレーしていました。体格の差がキツかったのですが、その中で学んだことも多かったので、感謝しています。
-中学~高校-
中学から大宮アルディージャのU-15に入ります。小学生のときに大宮のジュニアと何度か対戦して、強くて魅力あるチームだったので、セレクションを受けにいきました。受かるとは思っていなかったですが、1次試験で内定をもらいました。後から聞くと、実は大宮もオファーを出すことを考えていたらしく、目にはかけてくれていたようです。中学時代は新幹線で練習に通っていました。今、思うとしんどかったですが、僕以上に親が大変だったと思います。学校が終わって16時ごろ親に迎えにきてもらい、車の中で着替えながら用意して、新幹線に乗って練習場に行き、練習後はクラブで出る食事を食べて、また新幹線で帰り、夜の12時くらいに家に着く日々でした。勉強面では親が厳しかったので、新幹線の移動中に短期集中してやっていました。大宮U-15に入るときに親と「学年で10位以内に入ること。それをキープしなかったら、サッカーをやらせない」と約束しました。なので、めちゃめちゃ頑張りました。学年で2位になったこともあります(笑)。当時、姉が始発で高校に通っていたので、親はお弁当を作るために朝の3時、4時くらいに起きていました。「3年間、寝る時間がなかった。もう戻れない」と言っていました(苦笑)。家族の協力がなかったら通えていなかったです。サッカー面では大宮U-15のレベルはやっぱり高かったです。中1から同学年の試合には出ていましたが、体が小さかったので、頭を使いながらプレーしていました。今でもそうですが、当たり負けしない体を作る努力はしていました。その上で、自分の長所であるドリブルや技術を発揮したい、という思いはこの頃からずっともっています。中学時代で一番印象に残っている大会は、中1の夏に出たU-13セレッソカップです。それこそ、舞洲で試合をしたのですが、そこで自分は好きなプレーしかせず、すぐ代えられました。当時の自分はボールをもったら仕掛けて、取られても守備をせず、誰かのために走るプレーもしていなかったんです。そこからしばらく、試合に出してもらえませんでした。サッカー人生を振り返っても、一番の転機でした。何かを言葉で言われたわけではないですが、「自分で考えろ」みたいな感じでした。今では恩師と言える中谷優介監督ですが、当時は「何で使わないんだよ」と反発する思いもありました。でも、自分でも少し自覚がありました(笑)。中2、中3は違う監督だったのですが、その間もずっと気にかけてくれていました。自分がU-18に上がるタイミングで中谷さんもU-18のコーチになられたので、高校でもお世話になりました。今でも連絡を取っています。技術面、ポジショニング、メンタル、全てのことを教わりました。この監督がいなかったら、今の自分は間違いなくいません。また、中1だった2015年の大宮のトップチームには、家長(昭博)選手と泉澤(仁)選手がいました。ボールボーイとかで試合を見る機会があり影響を受けました。J2優勝を決めた試合も現地で見ていました。0-2から3-2で逆転勝ちをして、最後に家長選手がPKを決めました。ちょっと雨が降っていました、今でも鮮明に覚えています。ああいう舞台で自分もプレーしたいという憧れも生まれ、「大宮のトップチームに上がりたい」という思いが強くなりました。
高校では、大宮のU-18に昇格します。ここからは寮に入りました。親は楽になったと思います(笑)。昇格するにあたり、高体連に進む選手もいました。中学時代に一緒にやっていた須藤(直輝)選手は、昇格できたけど昌平高校へ進学する道を選んだのですが、僕は当時の中村順 育成部長と恩師の中谷さんともしっかり話して、この3年間、この人たちの下でプレーしたら確実に成長できると思って、昇格を決めました。高1から丹野友輔監督に高3の方に入れてもらい、当時プリンスリーグにも出ていました。最後はプレミアリーグに昇格できました。高2は、ほぼケガをしていました。復帰してはケガ、の繰り返しで、ほぼプレーしていません。最初は腰を痛めて3ヶ月、復帰直後に肩を脱臼して2ヶ月、また復帰したら今度は第五中足骨を骨折して3ヶ月(苦笑)。最後の方は試合にも出ましたが、プレーしている記憶より、ケガで離脱していた記憶の方が強いです。ただ、この間を利用して、体を太くすることができました。肩をケガしたときは下半身を鍛えて、足を怪我したときは上半身を鍛えて。ケガした時期にしかできないこともいっぱいあったので、この7ヶ月も意味のある期間でした。高3はコロナの影響でプレミアリーグ関東として開催されたのですが、大宮U-18は2位でした。自分たちの代は強く、クラブユース選手権も3位でした。この年は夏ではなく12月に行われました。トップ昇格は高3の9月に伝えられました。高2ではケガを繰り返していたので、上がれるかどうかギリギリまで分かりませんでした。親からは「大学に行って欲しい」とも言われていましたが、自分としてはプロに行けるならすぐに行きたかったので、トップ昇格できて嬉しかったです。親も「最後は自分で選ばないと後悔するから」と自分の意志を尊重してくれました。高3の12月、J2の最終節・ホーム愛媛FC戦でデビューしました。残り10分くらいで出たのですが、めちゃくちゃ緊張しました(笑)。けど楽しかったです。ドリブルで抜いたりするプレーはこの試合でも出せて、長所はJ2でも通用すると感じました。
-プロ以降-
1年目はJ2で31試合に出ました。開幕戦でプロ初ゴールを決めることもできました。キャンプではずっとサイドバックをやっていて、開幕1週間前のプレシーズンマッチでもサイドバックで出ていたので、開幕戦のメンバーに入れるか分からなかったのですが、メンバー入りして、プロになって初めてサイドハーフをやりました。それで結果を出せたので、そこからもコンスタントに出ることができました。スタメンは5、6試合で途中出場が多かったのですが、1年目から想像以上に試合に出ることができたと思います。途中出場で流れを変えられた試合も多く、手応えも掴めました。ただ、開幕戦以外はゴールを取ることができず、課題も残りました。ドリブルのキレを落とさずどう体を太くするか、ということもフィジカルコーチと相談しながらトレーニングしていました。太くし過ぎてキレを落とすと、自分の特長も生きない。下半身の筋トレをしたら、刺激を入れるためにアジリティーのメニューも行うなど、工夫しながらトレーニングしていました。大宮では、毎年シーズン途中で監督が代わりました。チームとしてはいい状況とは言えないですが、(高3で出場した当時の監督も含め)計5人の監督とやって、どの監督も自分を起用してくれたので、選手としての自信にはなりました。監督によってガラッとサッカーも変わりました。1年目の途中で就任した霜田(正浩)監督のときは[4-3-3]の左ウィングでプレーしたのですが、「サイドに張って、1対1で仕掛けろ」と言われていたので、自分としてはめちゃめちゃ楽しくて、武器を伸ばしてもらった感じです。今年の途中に就任した原崎(政人)監督には、ポジショニングや間で受けることなど、頭を使ってプレーすることを学びました。右サイドをやることが多かったのですが、原崎さんになって2、3ヶ月で公式戦5点くらい取れたので、感謝しています。ちなみにポジションは、高校時代はトップ下で、トップチームに上がってからサイドをやることが増えました。右と左、半々くらいです。監督によって変わりました。自分としては、どちらがやり易いとかはなく、どちらでもできると思っています。元々、左利きですが、右足も練習して、右足でもゴールを決められるようになりました。1年目は途中出場で流れを変える役割が多かったのですが、2年目はほぼ先発で出るようになり、35試合に出ました。アシストは二桁くらいできたのですが、得点が3点と少なかった。なので、今年はJ1昇格と二桁得点を目指してシーズンに入りました。まさか半年後にセレッソへ移籍することになるとは、思ってもいなかったです。
大宮では、アカデミーを含め8年半を過ごしました。小6のとき、「ここでプレーしたい」と思ったことは間違いではなかったです。指導者、スタッフに恵まれて、サッカー選手としてだけではなく、人間としても成長させてもらいました。もちろん大宮で昇格できれば良かったですが、J1は目指していた場所。自分のプレーを多くの人に見てもらいたい気持ちがあるので、試合に絡めるように、日々の練習からしっかりアピールいきたいです。昨年は、初めての移籍で、大阪も初めてだったので不安もありましたが、先輩はみんな優しくて後輩も話しかけてくれるので、すぐ馴染めました(笑)。小学生時代、日本代表で一番好きな選手が香川選手でした。まさかプロで一緒にプレーできるとは想像もしていなかったです(笑)。今年もいい選手が揃っていますが、ドリブルなど自分にしか出せない色をしっかり出して、ポジションを掴みたいです。ボールにたくさん触ってリズムを出して、ペナルティーエリア内ではドリブルやワンツーで得点やアシストにつなげていくことが自分の役割。今年は始動から合流していますし、周りの選手の特長も分かっているので、コンビネーションはより深めていくことができると思います。少しでも早くJ1初ゴールも決めたいですし、セレッソでスタメンを取って結果を出して、海外でプレーしたい目標もあります。そのためにも毎日の練習をしっかりやって、皆さんの期待に応えられるように自分のプレーを発揮して、勝利に貢献したいと思います。
CAREER
経歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
シバ2 利き足
左足3 足のサイズ(cm)
25.04 背番号のこだわり
柴山のシバ(48)です5 スパイクのこだわり
フィット感6 自分のプレーの特徴
ドリブル、ターン7 試合前に必ずすること
バナナを食べる8 遠征に必ず持っていくもの
枕9 オフの過ごし方
たくさん寝る10 ストレス解消法
食べたいものを食べる11 サッカーを始めた年齢
4歳12 サッカーを始めたきっかけ
ボール蹴る楽しさを感じたから13 影響を受けた指導者
中谷優介14 仲の良い選手/理由
ブワニカ啓太、大森りお、須藤直輝、大澤朋也/同じチームでプレーしたり、交流があった15 チームメートの意外な一面/内容
カピシャーバ選手/日本語の上達早い16 憧れの選手
香川選手、メッシ選手17 サッカーで一番大切にしていること
楽しむこと18 今季対戦が楽しみなチーム/理由
ガンバ大阪/ダービーは負けたくないから19 今までで一番嬉しかった試合
昨年10/28(土)のG大阪戦20 今までで一番悔しかった試合
昨年の9/23(土)ヴィッセル神戸戦21 将来の夢(サッカー面)
海外で活躍する22 もしサッカー選手じゃなかったら
実家の会社を継ぐ23 あなたにとってサッカーとは
楽しむもの24 今季の目標(サッカー目標)
ゴール、アシストの結果でチームの勝利に貢献する25 セレッソ大阪の好きなところ
選手みんなが優しい26 セレッソ大阪のイメージ
桜のピンク27 ヨドコウ桜スタジアムの好きなところ
ピッチと客席の距離が近いこと!28 どんな応援をされると嬉しい?
自分のチャント歌われると嬉しい29 おすすめの地元飯
焼き饅頭30 趣味・マイブーム
散歩31 自分の性格を一言で!
抜けてると言われる32 自分の一風変わったくせ
食べるのが遅い33 生きていて1番ワクワクする瞬間
サッカーしてる時34 生まれ変わったら何になりたい?
サッカー選手35 座右の銘、好きな言葉
楽しむ36 初めての給料の使い道
親37 好きな芸能人/アーティスト/芸人(男性)
霜降り(せいや、粗品)38 好きな芸能人/アーティスト/芸人(女性)
佐々木希39 好きな女性のタイプ
綺麗で面倒見がいい人40 好きな女性の髪型はショート派?ロング派?
ロング41 好きなアニメ/マンガ/ゲーム
呪術廻戦42 好きな映画のジャンル
アニメの映画43 好きな音楽のジャンル
幅広く聴きます44 苦手な食べ物
ナス45 この世で一番好きなもの
サッカー46 この世で一番怖いもの
おばけ47 今一番会ってみたい人
リオネル・メッシ選手48 今一番欲しいもの
電動キックボード49 最近嬉しかったこと
帰省で犬に会えたこと50 引退後にやってみたいこと
指導者51 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
サッカー52 誕生日にもらって嬉しかったもの
旅行に連れてってもらったこと53 ほっとする瞬間
点を取った時54 いつもつけている香水(銘柄等)
ジョーマローン55 今季の目標(プライベート)
語学勉強する!56 ファン・サポーターへひと言
リーグ優勝します!