山﨑 凌吾
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FW

Ryogo YAMASAKI

山﨑 凌吾
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  • 年齢32
  • リーグ戦
    総出場試合数
    -

PROFILE
プロフィール

  • 名前山﨑 凌吾(ヤマサキ リョウゴ)
  • 生年月日1992/09/19(32歳)
  • 出身地岡山県
  • 身長/体重187cm / 82kg
  • ポジションFW

PLAYER'S HISTORY
インタビュー

-幼少期-

サッカーを始めたきっかけは、5歳上の兄です。幼稚園で友達とボールを蹴ったりして、兄に付いていって端っこでボールを蹴っていたら、「入ってみない?」と誘われて、兄も入っていた江西サッカー少年団に入りました。小2の終わり頃です。楽しくサッカーしていました。点を取ったりパスを出したり、ドリブルも好きで、すばしっこく動いていました。小さい頃は背が小さくて、中2までは前から数えた方が早いくらいでした。中3で一気に伸びて、卒業する頃には後ろから2番目くらいになりました。小6になるタイミングで、ヒーロ備前ジュニアというチームに移りました。親が言うには、「もっと強いチームでやりたい」と言っていたようです。少し家から遠かったのですが、ヒーロ備前ジュニアの練習に参加して、「いいな」と思ったので、移ることにしました。ここでパウロ松本さんという在日ブラジル人のコーチの方と出会うのですが、この方の指導がめちゃくちゃ面白かった。足元でのコンビネーションや、足の裏を使ったり、色んな技術を教えてくれました。本来ジュニアユースのコーチなのですが、小6でも指導を受けることができました。この方と出会えたことがとても大きかったです。プロになってからパウロ松本さんとご飯に行った時、「ノボリ(登里享平)も見ていたよ」と聞きました。昔は香川西高校も指導していたようです。それをずっとノボリさんに伝えたくて、今年やっと言えました(笑)。ノボリさんも、「そんなことある?」と笑っていて(笑)。ノボリさんと、そういう共通点もありました。僕にとって、最初の恩師と呼べる方です。


-中学~大学-

中学では、そのままヒーロ備前ジュニアユースに進みます。中学でも3年間ずっとパウロ松本さんに指導してもらいました。小6の時と同様、技術やコンビネーション、パスの出し方を教わって、上手くなりたい一心で練習していました。この頃はトップ下をやっていました。ドリブルしたり、スルーパスを出したり。今のスタイルとは違いますね(笑)。前で収めるプレーやヘディングはあまりやっていませんでした。そこまで強いチームではなかったですが、サッカーの楽しさを教わった3年間でした。中学でサッカーの実績がない分、内申書を良くしようと思って勉強も頑張りました(笑)。


高校は玉野光南に進学します。県内で強かったですし、中学時代から試合を見ていて、「あの青いユニフォームを着たい」という思いがありました。セレッソでもプレーしていた苔口(卓也)さんも見て、「カッコイイな」と。入試は面接の他に実技もあり、ゲームやシュート、パス、ドリブル、スポーツテストもやりました。中学時代に実績はなかったのですが、積み上げてきた自信はあったので、しっかり準備して臨んで、合格できました。玉野光南を受ける前に自分の実力を知りたくて、滝川第二のセレクションも受けたんですよ。奇跡的に滝二も受かったのですが、玉野光南へ行きたい気持ちが強かったので、玉野光南へ行きました。入った時の印象は、やっぱりレベルは高かったです。特に高3は雲の上の存在でした。1年目は選手権予選の登録メンバー25人には入ったけど、ベンチには入れませんでした。部員は各学年に30人ずつぐらい、全員で90人くらいいました。サッカーのスタイルとしては、サイドに速い選手がいて、前にはクリエイティブな選手がいて、後ろはしっかりヘディングで跳ね返す感じです。素走りの練習も多く、そのあたりは、“ザ・高校サッカー”という感じでした。選手権は1回も出ることができませんでした。3年連続、県予選の決勝で作陽に負けました。一度は出てみたかったですね。全国大会は、高2で初めてインターハイに出場して、ベスト8まで進みました。それが一番の実績です。僕自身、高2になって試合に出始めて、プリンスリーグでも勝ち始めて、インターハイでもレギュラーとして出ることができました。ベスト8では、一学年上の谷口彰悟選手がいた大津高校に負けましたが、レギュラーとして出て点も取って、ベスト8まで進めたので、自信になりました。高校でのポジションは中学時代と同様、トップ下でした。セカンドトップみたいな感じです。高3では、インターハイの県予選決勝でも作陽に負けました。当時は、プロはイメージできず、遠い存在でした。大学卒業後は就職するつもりだったので、高3ではサッカーをしながら就職に強い大学を探していました。有難いことに、インターハイで活躍したことで、いくつかの大学から話をもらいました。早い段階で同志社大学に声をかけてもらい、就職も強いしサッカーも強かったので、「行きたい」と。ただ、スポーツ健康科学部は全国ベスト4以上など実績が必要でした。僕は実績がなかったのですが、同志社の監督が欲しがってくれて、「商学部ならいいよ。試験も簡単だから、面接で自分の思いを言えばいい」という話だったのですが、実際に受けたら難しくて(苦笑)。面接では志望動機やこれまでの人生を聞かれるだけかと思っていたのですが、「この英文を読んで、訳して下さい」と言われて。「聞いていたのと違う」と焦りました(苦笑)。小論文も難しくて、落ちてしまった。他の大学は全部、推薦を断っていたので、ここから進路に苦労しました。福岡大学の乾(真寛)監督が「大きくて左利きの選手を欲しがっている」ということを聞いて、福岡大学を一般入試で目指すことになりました。そこから必死に勉強して、何とか受かって入れました。めっちゃ大変でした(笑)。


ただ、結果的に福岡大学に行ったことで、プロサッカー選手になれたと思います。入試の時にサッカーの実技で8対8のゲーム形式があったのですが、最初はボランチをやろうと思ったところ、乾監督から「一番前をやれ」と言われて初めてFWをやったんです。入学後も1年目からAチームに入れてもらい、夏に行われた総理大臣杯の九州予選でもスタメンで出させてもらってゴールも取りました。それが大きかったです。本格的にFWでプレーしたのは大学に入ってからです。高3での選手権予選も一番前でしたが、ゼロトップのような役割で、周りを生かしたり、生かされたり、というプレーをしていました。福岡大学はロングボールが多かったので、体を張るとか、走るとか、戦うとか、そういうスタイルを植え付けられたと思います。1年の冬に全日本大学選抜にも呼んでもらいました。周りのレベルが一気に上がり、そこで初めて本格的に、「プロを目指したい」と思いました。当時は筑波大や専修大が強く、そこから来ている選手たちは上手かった。「こんなに上手い選手がいるんだ」と思ったのと同時に、自分も通用する部分があって、「もっと上を目指したい、成長したい」という思いが湧いてきました。振り返ると、福岡大学に行って良かったです。高校時代は代表や選抜には縁がなかったのですが、大学では周りの人たちにも恵まれて、環境が一気に変わりました。プロになった選手も多く、僕が1年の時の4年生に石津大介さんがいて、凄かったです。石津さんを頼りながら、僕は2トップや3トップで自由にやらせてもらっていました。2学年上にもCBに牟田(雄祐)さん、攻撃に清武功暉さんがいました。1学年下で(木本)恭生も入ってきました。1年生の冬にサガン鳥栖のキャンプにも行かせてもらいました。当時の監督はユンさん(ユン ジョンファン監督)でした。そこから毎年、鳥栖のキャンプに参加して、3年の途中から特別指定選手になりました。そのときもユンさんに呼んでもらいました。当時の鳥栖には豊田陽平さん、水沼宏太さん、藤田直之さんもいて、強かったです。大学時代は、2年にインカレで準優勝して、3年では総理大臣杯で3位になり、自信も付きました。この頃には、「プロになりたい」というより「プロで活躍する」という思いに変わっていきました。大学時代は裏に抜け出すプレーが多く、収めたり、ヘディングは得意ではなかったです。ポストプレーができるようになったのは、プロ2年目で徳島ヴォルティスに行ってからです。


-プロ以降-

プロでの転機は、2年目に期限付き移籍した徳島です。J2でしたが、長島裕明監督の下、40試合に出ることができました。3-4-3の右のシャドーで出て、初めてのポジションでしたが、間でボールを受ける、フリックする、コンビネーションで打開するといったプレーを磨きました。40試合に出たことで試合の体力も付いたというか、試合ごとに成長できている実感もありました。翌年、完全移籍したのですが、この年から就任したリカルド ロドリゲス監督との出会いも大きかったです。超攻撃的で、今まで受けたことのない指導や思考で、練習でやっている攻撃の形が本当に試合で出るんです。今でこそ「ポジショニング、ポジショニング」と言われていますが、当時はそこまで流行っていなかった。リカルドは来た当初から、ポジショナルプレーを徹底して、立ち位置とか、自分がボールをもらわなくても相手を引っ張って味方のスペースを空けるとか、面白いなと思いました。ただ、シーズン序盤はケガもあり、ほとんど試合に出ていません。でもチームは好調で。途中、右ウィングバックの選手がいなくなって、「凌吾、やってくれないか」と言われて右ウィングバックで2試合出たのですが、FWがボールを欲しいタイミングとかを俯瞰して見れて、新たな発見もありました。その次のホームゲーム、ツエーゲン金沢戦で、渡(大生)と2トップで出る試合があって、「ここで点を取れたらそのままいける。取れなかったら終わり」ぐらいの気持ちで臨みました。そうしたら、その試合でシーズン初ゴールを取れて、そこからはFWでずっと出ることができました。ボールを大事にするチームだったのですが、プレスに来られたらハマる試合もあって、それを回避するために長いボールも増えて、自分も相手を背負うことが増えて、胸でコントロールしないといけない場面もあり、そこで初めてポストプレーの面白さ、コツを掴んだ気がします。最終的に34試合で14点7アシストと結果も残せました。得点を取ること、周りを生かすこと、両方ができて、プレーしていても楽しかったです。翌年の夏のタイミングで、湘南ベルマーレからオファーをいただき、移籍を決断しました。徳島でのプレーも充実していたのですが、プロ1年目、J1の鳥栖では何もできなかった思いがあって、「もう一度、J1で挑戦したい、成長したところをぶつけたい」気持ちがありました。「徳島でやっていたことを出せば、J1でもやれる」という自信もありました。ただ、湘南は縦に速い、走るサッカーで、徳島とは真逆のスタイル。ボールを大事にするというより、“追い越して、追い越して”という感じで、どんどん自分にボールを当ててくる。奪われたら全部ハイプレスで奪いにいく。強度も高くてキツかったです。湘南での最初の試合はアウェイでのヴィッセル神戸戦だったのですが、60分ぐらいで全身を攣ったみたいな感じになり、ベンチで動けなかったことを覚えています(苦笑)。湘南では、より泥臭いプレーも求められました。3-4-3の1トップでポストプレーも求められた中、ある程度、J1でもやれたので自信になりました。この年にルヴァンカップで優勝する経験もできました。翌年はJ1参入プレーオフ決定戦で徳島と対戦しました。監督もリカルドで、知っている選手も多かったので、複雑な気持ちでした。残留を決めても素直には喜べなかったです。この時の徳島も強かった。1-1だったのですが、レギュレーションに助けられました。翌年の2020年は名古屋グランパスに移籍します。ビッグクラブと言われるチームでプレーしたことがなかったので、自分にとっては挑戦でした。マッシモ フィッカデンティ監督は、これまでの監督ともタイプが違う監督でした。守備重視の考え方で、攻撃が難しかった。サイドバックをあまり上げないので、少ない人数で攻めないといけなかった。ただ1年目は3位、2年目が5位と、勝てるチームでした。周りの選手のレベルも高く、紅白戦をやっていても刺激的でした。2年目の21年は名古屋でもルヴァンカップで優勝できました。相手はセレッソでした(笑)。その直前に天皇杯でセレッソに敗れたので、ルヴァンカップ決勝に向けたミーティングは凄くて、かなり入念にやりました。自分はケガ明けで試合に出ることはできなかったのですが、勝負に徹したサッカーができたと思います。直近は京都サンガF.C.で2年半プレーしました。京都はJ1に残ることがまず重要で、それは達成できました。ただ、個人的には数字が伸びず、歯痒さもありました。もう少し個人の結果も残したかったですが、名古屋では2年続けて大きなケガをしていた中で、そのケガも癒えて、強度高くプレーできたことは大きかったです。京都ではトヨ(豊川雄太)と同じ年に入ったので、毎日のように一緒に過ごしていました。今でもよく連絡を取っています。家族みたいな存在です(笑)。今回の移籍も彼に相談しました。京都では長澤(徹)コーチとの出会いも財産になりました。自分の想像を超えたアドバイスをくれたり、「そういう考え方もあるんだ」という、メンタル的にもサッカー的にも学びになりました。そして今年の夏、このタイミングでセレッソさんに声をかけていただいて、加入することになりました。その恩をしっかり返したい。セレッソの目標はハッキリしているので、それを達成するために自分の力を発揮したいと思います。今年で32歳になりますが、まだまだ成長できると思っているので、数字としても結果を残したいです。自分のプレースタイル的にも、周りを生かしながら、チームが一つでも多く勝てるようにプレーしたいです。周りの選手もしっかりサポートしてくれるので、やりやすさも感じますし、技術が高い選手が多いので、周りを生かしながら自分も得点の取れる位置に入っていけば、点が取れるイメージはあります。レオ(セアラ)の力強さを生かすことも自分の良さだと思うので、一緒にプレーすることが楽しみです。今まで培ってきた全ての経験を、セレッソのために発揮したいと思っています。


CAREER
経歴

ヒーロ備前Jrユース→玉野光南高校→福岡大学→サガン鳥栖※JFA・Jリーグ特別指定選手サガン鳥栖→徳島ヴォルティス※期限付き移籍→サガン鳥栖→徳島ヴォルティス→湘南ベルマーレ→名古屋グランパス→京都サンガF.C.→セレッソ大阪

PERSONALITYパーソナリティー

  • 1 ニックネーム

    りょうご
  • 2 利き足

    左足
  • 3 足のサイズ(cm)

    27.5
  • 4 背番号のこだわり

    妻の誕生日
  • 5 スパイクのこだわり

    軽さ
  • 6 自分のプレーの特徴

    ポストプレー
  • 7 試合前に必ずすること

    水をたくさん飲む
  • 8 遠征に必ず持っていくもの

    -
  • 9 オフの過ごし方

    家族とおでかけ
  • 10 ストレス解消法

    サッカーから離れる(今は神社巡りにハマってる)
  • 11 サッカーを始めた年齢

    9歳
  • 12 サッカーを始めたきっかけ

    兄がサッカーをやっていた
  • 13 影響を受けた指導者

    リカルドロドリゲス、長澤徹さん
  • 14 仲の良い選手/理由

    豊川雄太、梶川裕嗣
  • 15 チームメイトの意外な一面/内容

    -
  • 16 憧れの選手

    -
  • 17 サッカーで一番大切にしていること

    自然体
  • 18 今季対戦が楽しみなチーム/理由

    古巣チーム全部/どのチームも思い入れはあるから
  • 19 今までで一番嬉しかった試合

    優勝したとき
  • 20 今までで一番悔しかった試合

    -
  • 21 将来の夢(サッカー面)

    セレッソ大阪で優勝する
  • 22 もしサッカー選手じゃなかったら

    体育の先生。高校の教員免許もってるから
  • 23 あなたにとってサッカーとは

    切り離せないもの
  • 24 今季の目標(サッカー目標)

    セレッソ大阪の優勝
  • 25 セレッソ大阪の好きなところ

    -
  • 26 セレッソ大阪のイメージ

    日本代表、海外で活躍する選手が多い
  • 27 ヨドコウ桜スタジアムの好きなところ

    ピッチが近い
  • 28 どんな応援をされると嬉しい?

    -
  • 29 おすすめの地元飯

    きびだんこをお土産でぜひ!
  • 30 趣味・マイブーム

    サウナ
  • 31 自分の性格を一言で!

    自覚はないが、天然と言われます
  • 32 自分の一風変わったくせ

    わからない
  • 33 生きていて1番ワクワクする瞬間

    家族旅行で遠出する前
  • 34 生まれ変わったら何になりたい?

    野球選手
  • 35 座右の銘、好きな言葉

    なんとかなる
  • 36 初めての給料の使い道

  • 37 好きな芸能人/アーティスト/芸人(男性)

    千鳥
  • 38 好きな芸能人/アーティスト/芸人(女性)

    -
  • 39 好きな女性のタイプ

    明るい
  • 40 好きな女性の髪型はショート派?ロング派?

    どっちも
  • 41 好きなアニメ/マンガ/ゲーム

    ハイキュー
  • 42 好きな映画のジャンル

    なんでもみる
  • 43 好きな音楽のジャンル

    日本の曲
  • 44 苦手な食べ物

    グリンピース
  • 45 この世で一番好きなもの

    家族
  • 46 この世で一番怖いもの

    災害
  • 47 今一番会ってみたい人

    -
  • 48 最近嬉しかったこと

    カメラ
  • 49 引退後にやってみたいこと

    サッカーと違うこともやってみたい
  • 50 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと

    外でたくさん遊んだこと
  • 51 誕生日にもらって嬉しかったもの

    スタバカード
  • 52 ほっとする瞬間

    ホットコーヒーを飲む時
  • 53 いつもつけている香水(銘柄等)

    ビュリー
  • 54 今季の目標(プライベート)

    カメラを買う
  • 55 ファン・サポーターへひと言

    皆さんに認めてもらえるように頑張ります!よろしくお願いします!