PROFILE
プロフィール
- 名前山田 寛人(ヤマダ ヒロト)
- 生年月日2000/03/07(24歳)
- 出身地愛知県
- 身長/体重183cm / 76kg
- ポジションFW
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
サッカーを始めたのは小1です。昔から外で遊ぶのが好きで、友達に誘われて行ったのが、FC豊明という地域のチームでした。サッカーは楽しかったですね。小3の途中から、より強い愛知FCのセレクションを受けて入りました。東海地域の中ではグランパスの次に強いチームでしたが、サッカーのスタイルとしては、長いボールを蹴ったり、身体能力を生かしたサッカーだったので、成長のために、小5でフットサルのチームにも入りました。名古屋オーシャンズのスクールです。足元の技術はそこで学びました。毎日サッカー漬けでしたね。中学に上がる前は名古屋グランパスのセレクションも受けたのですが、落ちました(苦笑)。その理由を親が聞いてくれたらしく、「目の前に相手がいてもドリブルで行けないから」だったようです。悔しかったですね。そこからドリブルの技術も身に付けるようになりました。
-中学~高校-
中学では、そのまま愛知FCのジュニアユースへ上がる選択肢もあったのですが、成長のために環境を変えようと思い、ホペイロ刈谷に入りました。ホペイロでの3年間は楽しかったです。強さは愛知FCの方が上だったのですが、カラーが全く違い、そこでまた成長できました。ホペイロでは、ドリブルやパス、細かい技術を教えてもらいました。スペイン系のサッカーをやっていたので、周りも足元の技術に長けた選手がいっぱいいました。最初は自分より上手い子が多く、「やっていけるかな?」とも思ったのですが、徐々に慣れていきました。ポジションはずっと前です。小学生の時は右サイドハーフやFWでしたが、中学時代はトップ下が主で、ボランチや左サイドハーフもやりました。どちらかと言うと、当時はアシストが好きでした。得点は、2列目から飛び出して取るような選手でした。
将来、本気でプロサッカー選手になりたいと考えたのは、高校でセレッソのU-18に入ったタイミングです。セレッソU-18に入ることになった経緯は、当時の監督、大熊裕司さんとホペイロのスタッフが中央大学の同級生で、仲が良かったこと。ホペイロから4人ぐらい練習参加することになりました。そこで大熊さんから「自分だけ欲しい」と言ってもらえたみたいで、入れることになりました。高校進学にあたっては、地元の東海学園からもオファーがありました。高校サッカーに憧れもあったし、ホペイロから何人もそこへ行くことが決まっていたので、「楽しくサッカーできるかな?」という思いもありました。ただ、それ以上にセレッソアカデミーへの憧れが強かったです。練習参加は1日だけで、日帰りでした。中3の夏です。朝から行って、走りも多く、全部の練習が終わった後はヘトヘトでした(苦笑)。強度が全く違いました。ホペイロは技術に特化した練習が多かったですが、セレッソのアカデミーは走る量やスピードが全然、違いました。高校生活は、家を出て寮に入りました。地元を離れる時は少し泣きました(笑)。今まで名古屋でも小さな刈谷市の中で暮らしていたので、いきなり大阪という都会に来て初めて関西人と喋った時は、人が強すぎてビックリしました(苦笑)。最初は不安もありましたが、自分以外にも外部から来ていた子もいて同じ気持ちだったので、外部組と仲良くなれました。家族も寂しかったとは思いますが、送り出してくれました。
セレッソというクラブについては、中1の頃に初めて練習試合をして、そこから気にするようになりました。当時、セレッソ出身で、海外で活躍している選手も多く、香川選手や乾くん、(柿谷)曜一朗くんが輝いていて、憧れもありました。そういったクラブにまさか自分が入れるとは思っていなかったので、少しは自分にも(サッカー選手として)可能性があるのかなと思いました。入ってすぐの高知キャンプはヤバかったです(苦笑)。朝5時半に起きて、6時から真っ暗な中を走って、午前、午後と練習して。それを1週間くらい続けたら「もうダメだ」と(苦笑)。試合には、(中島)元彦とかセレッソのジュニアユース上がりの選手が最初に出て、自分は高1の最初は出られませんでした。高1で初めて本格的にFWを始めました。大熊さんに「お前はFW」と言われて。ただ、背負うプレーが出来ず(苦笑)。そもそも前で体を張って収めるプレーは今までやっていなかったので、高1の頃は収まっていたのか記憶にありません(苦笑)。ひたすら裏に抜けたり、前から追って、走っていました。この頃、初めて年代別代表に入りました。この代表には(瀬古)歩夢や(喜田)陽、(鈴木)冬一ら主力選手は呼ばれておらず、全員、初めて呼ばれる選手たちでした。練習では良かったんですけど、試合がダメで、次の活動には呼ばれないと思っていたのですが、人数が足りなくなったのか、急遽また呼ばれて。自分にとって2回目のこの代表は、主力が集まった代表でした。この時は調子が良く、試合でも点を決めました。スタッフにも「良かった」と言われて、この合宿がサッカー選手としての転機になりました。ただ、高1の最後、10月のフランス遠征では内容が悪く、森山(佳郎)監督にも怒られて、そこから呼ばれなくなりました。自分に何が足りないかを考えた時に、収めることやポストプレーが出来ていないと思いました。中学生の時にめちゃめちゃ練習したので、足元の技術はあるほうだと思っていたんですけどね(苦笑)。ただ、高校に入ってからは、走り過ぎて、足元の感覚を忘れていたなと気付きました。だから高2になってからは、裏に抜けるプレーや走るプレーを少し減らして、足元の技術を高めようと自分の中で決めました。代表でも(久保)建英や(宮代)大聖の足元が上手すぎて、自分のプレーが恥ずかしくなったのもあります。なので、高2の1年間は、背後に抜けるよりも落ちてボールを受けたり、足元の技術を高めることに特化しました。そうしたらポストプレーもできるようになり、そこからまた(年代別)代表にも継続して呼ばれるようになりました。高2の時、インドで行われたAFC U-16選手権のメンバーにも選ばれました。事前キャンプで調子が良く、初戦のベトナム戦にも先発して1点を取りました。ただ、その後、体調を崩して2戦目、3戦目は出ていません。FIFA U-17ワールドカップ出場が懸かったベスト8のUAE戦は大一番でした。歩夢が決めて先制して、その後、自分も試合に入って、少しは流れを変えることができました。1-0だったので、緊張感は最後までありました。試合後、歩夢はめちゃくちゃハシャいでいましたね(笑)。ベスト4のイラク戦にも先発で出て、2点を取ることができました。自分にとって大きな大会になりました。
これまで、クラブでも年代別代表でもいい指導者に巡り合えていると思いますが、中でも高2の時の監督だった村田(一弘)さんとの出会いは大きかったです。大熊さんは多くは言わないタイプの監督だったのですが、村田さんは逆のタイプでした。守備のポジショニングもそうですし、ボールを受ける前の準備もすごく緻密で細かい。厳しかったですが、村田さんの指導で上手くなれたことは間違いないです。この年はチームも強かった。一つ下に歩夢や陽、冬一がいて、一つ上にも(森下)怜哉くんや(斧澤)隼輝くん、カケ(舩木翔)がいました。プレミアリーグでも、最初はほぼ全勝でした。そこからU-23に抜かれ始めて少し弱くなったのですが。自分も高2の10月にJ3デビューできました。この年にU-23ができたのですが、開幕前のU-23の高知キャンプにも行きました。このあたりから、少しずつプロへの意識は高まっていきました。高3ではU-17ワールドカップに出ました。ただ、個人としては、もったいなかったという印象が強いです。高1から目指していた舞台で、今後の人生においても分岐点になるような大会だったのですが、いざその舞台に立ってみると、何も出来なかったので。2戦目のフランス戦には途中出場したんですけど、弱気になり、先発フル出場した3戦目のニューカレドニア戦も、格下相手だったのですが、1-1で引き分けてしまい、情けない思いをしました。少し腰が引けた部分もあり、そうした覇気の無さを森山監督にも見破られて、最後のイングランド戦は出してもらえませんでした。チームもPK戦で負けて、悔いが残る大会になりました。この大会に臨む前に、トップ昇格を伝えられました。プロになれると決まり、嬉しかったです。昇格は難しいと思っており、関東1部の大学からも声がかかっていたのもあって大学進学も少し考えていました。なので、「大卒でプロになる手もあるかな」と思っていたら、村田さんに呼ばれて、「お前、大学に行こうとしているの?」と聞かれたので、「少し考えています」と答えたら、「トップチームに上がれるよ」と。自分が高3の年、(杉本)健勇くんが活躍していたんですけど、村田さんから、「その後は誰がやるんだ。俺はお前しかいないと思う」と言われて。サラッと言われたんですけど、めちゃめちゃ嬉しくて。そこで大学の可能性は絶って、プロ入りを決めました。他の人にも相談したんですけど、「目指してきたトップチームに上がれるチャンスがあるなら断る理由はないだろう」と言われて、それもそうだなと。トップチームは自分が高3の時に二冠を獲得したのですが、曜一朗くん、健勇くんへの憧れは強かったです。高3の最後、天皇杯を戦っていたトップチームの練習に自分と陽が呼ばれたんですけど、曜一朗くん、健勇くんは本当に凄かった。同じプロという立場になって2人を見た時に、衝撃を受けました。高校3年間で最も印象に残っている試合は、高3のJユースカップ、フロンターレに負けた準々決勝です。ちょうどU-17ワールドカップが終わった後で、川崎は(宮代)大聖も先発していたので、意識していました。自分のプレーはすごく良かったんですよ。ただ、ことごとくシュートを外してしまい、3-4で負けました。自分も1点を決めたんですけど、悔しい思いをして、泣いたことを覚えています。アカデミーとしては最後の大会で、出来たことの方が多かったんですけど、負けてしまったので、一番、思い出深い試合です。
-プロ以降-
高校からセレッソU-18に入れたおかげで、自分はプロになれたと思います。ただ、そのセレッソに自分はまだ何も貢献できていないですし、思うような活躍ができていません。トップ昇格後は、ブラジルへの短期修行や、FC琉球やベガルタ仙台への期限付き移籍など、色々なチームでプレーしました。そこで成長できたことも多かったですし、仙台へ2度目の移籍となった昨年も、1年間、試合に出続けて多くの選手から学ぶことができました。そうした経験を経て、セレッソに帰ってきて改めて思うことは、やっぱりセレッソで活躍したい、ということ。周りの期待に応えたい思いが強くなりました。前回(2022年)セレッソにいた時は波がありました。いい時はいい感じでプレーできたのですが、試合に絡めず失速した部分もあり、サポーターの皆さんの期待に応えることができませんでした。今年こそFWとして結果を残して、チームの目標であるタイトル獲得に貢献したい。クラブ設立30周年、節目の年に、お世話になったクラブでプレーできることは嬉しいです。育ててもらった分、恩を返す気持ちで頑張ります。プロになって7年目、セレッソの選手としては、自分の中では今年が最後(のチャンス)ぐらいの気持ちで挑む部分もあるので、チームの目標のために精一杯、頑張ります。応援していただけると嬉しいです。
CAREER
経歴
NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
やまだ2 利き足
右足3 足のサイズ(cm)
28.54 背番号のこだわり
プロになって最初につけたから5 スパイクのこだわり
足に合う6 自分のプレーの特徴
DFとの駆け引き7 オフの過ごし方
好きなことする8 ストレス解消法
友達と遊ぶ9 サッカーを始めた年齢(例:10歳)
6歳10 サッカーを始めたきっかけ
友達に誘われて11 影響を受けた指導者
矢野隼人12 仲の良い選手
真木晃平13 チームメートの意外な一面/内容
喜田陽/髪を自分で切ってる14 サッカーで一番大切にしていること
成長15 今季対戦が楽しみなチーム/理由
ガンバ大阪/ダービーなので16 今までで一番嬉しかった試合
2022年のアウェイ川崎17 将来の夢(サッカー面)
たくさん18 あなたにとってサッカーとは
答えるのが難しい19 今季の目標(サッカー目標)
たくさん点取る20 セレッソ大阪の好きなところ
ピンク21 セレッソ大阪のイメージ
やんちゃ22 ヨドコウ桜スタジアムの好きなところ
席と距離が近い23 おすすめの地元飯
小倉トースト24 趣味・マイブーム
釣り、ポーカー、麻雀25 自分の性格を一言で!
B型26 生きていて1番ワクワクする瞬間
やりたいことやってるとき27 初めての給料の使い道
親にプレゼント28 好きな芸能人/アーティスト/芸人(男性)
霜降り明星29 好きな芸能人/アーティスト/芸人(女性)
遠藤さくら30 好きな女性のタイプ
落ち着いてる人31 好きなアニメ/マンガ/ゲーム
ぐらんぶる32 苦手な食べ物
昆布33 この世で一番好きなもの
たくさん34 この世で一番怖いもの
たくさん35 今一番欲しいもの
バイク36 最近嬉しかったこと
車を買った37 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
水泳38 誕生日にもらって嬉しかったもの
決めれない39 ほっとする瞬間
給油間に合ったとき40 いつもつけている香水(銘柄等)
Jo MALONE41 今季の目標(プライベート)
たくさん釣る42 ファン・サポーターへひと言
タイトルとりましょう!